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調査は対話の積み重ね。ターゲット調査から「ステークホルダー調査」へ

 認知症は、かつて「痴呆(ちほう)症」と呼ばれていたことを知っていますか? 社会調査を通して、患者や家族、医療関係者と対話を重ね、病院受診を妨げる偏見や病気への誤った認識を明らかにした「認知症啓発のための調査研究プロジェクト」

 前編となる本記事では、国際的にも高く評価されたこのプロジェクトを率いたPRプロフェッショナル花上憲司さんと、PRX Studio Qのプランナー岩澤俊之が、調査を通して生活者の生の声を聞くことの重要性について考えました。

まず、調査から「なぜ」の正体を浮かび上がらせる

岩澤俊之(以下、岩澤):PR(パブリックリレーションズ)とは、組織や企業が社会と合意形成を行うことを目的としていますが、そのためには社会を構成する生活者の声を聞くことが不可欠です。今回は、花上さんが約15年にわたって取り組んだ「認知症啓発のための調査研究プロジェクト」の事例を参考にしながら、PRにおいて、生活者の声を把握することがなぜ必要なのかを考えたいと思います。

花上憲司(以下、花上):本プロジェクトは、今から20年以上前の1998年にスタートしました。製薬会社が認知症薬を開発し、その発売を前に「日本人が痴呆症をどのように考えているのか知りたい」と僕たちに相談いただいたことがきっかけです。

 そこでまず、認知症の症状がみられる人の介護をしている家族約300人にアンケートを行ったところ、症状があるにもかかわらず、約75%の人が病院を受診していないことが分かりました。治療のためにも早期診断が重要なのに、なぜ病院へ行かないのか。受診しやすい社会環境をつくるためには、まずは、この「なぜ」の正体、つまり受診の妨げとなる要因を徹底的に調べなくてはいけないと、大規模な社会調査研究プロジェクトがスタートしました。

岩澤:病院を受診しないという課題が見えたときに、ただ早期受診を呼びかけるだけではいけなかったのでしょうか。

花上:受診しない理由に着目することが重要です。「ただ知らないから」ということが理由なら、広告などで早期受診を呼び掛けることも有効でしょう。しかし実際は、「病気への抵抗感」とか「かかりつけ医の理解不足」など理由はとても複合的でした。

 だからこの「なぜ」の部分をまずは多角的に調べ、得られた調査結果から的確な広報活動につなげていきました。2013年の終了までの約15年間、とても長い時間をかけて取り組んだプロジェクトです。

社会調査とは「対話の積み重ね」

岩澤:社会調査とは、人間や社会を観察、調査したデータから分析することですが、インタビューなどの質的なアプローチと、アンケートなどの量的なアプローチに分けられます。このプロジェクトでは具体的にどのような調査を実施したのでしょうか。

花上:調査は非常に多岐にわたりましたが、特に大切なのは対象者との「対話」です。具体的には、大きく分けて四つの分野「日本社会での認知症の受け止められ方」「介護している家族の実態」「医療福祉関係者の治療への姿勢」「発信された啓発情報の伝わり方」で、アンケートやグループインタビュー、ビデオインタビューを実施しました。

認知症は専門的な分野なので、医師や医療関連の専門家と共同で10人くらいのチームをつくり、調査結果を分析しながら、次に実施する調査内容を決めていきました。当時はこのチームが、日本のどの機関よりも、認知症に関するデータを持っていたと思います。

岩澤:これだけの大規模調査というのはなかなかないですよね。調査の過程で最も苦労した点はなんでしょうか。

花上:本調査では、基本的にお年寄りにお話を聞くことが多かったので、答えやすさを考慮し、インターネットは原則使用しませんでした。対面式で進めたので、通常よりも時間を要しましたね。介護の実態を知るためのビデオインタビューは、認知症患者とその家族、介護を支えるケアマネジャーやヘルパーなど、100人以上にご協力いただきました。

 患者と家族を取り巻く状況を細かく理解する目的で、生活環境などもビデオに収めることもありました。意外だったのは、初めはインタビューに抵抗があるのではないか、と考えていたのですが、むしろ話を聞いてもらいたいという人が多かったことです。

 介護の苦労・葛藤・つらさは、なかなか他の家族や兄弟姉妹にも話しづらく、一人で抱え込んでしまっている場合が多いのです。われわれがインタビューして「心が晴れた。またインタビューに来てくれ」と言われたこともありました。

岩澤:インターネット調査が主流の現代ですが、対面調査だからこそ、見えてくるものもありますよね。生活者がどんなことに悩み、課題を抱えているのかという潜在的な「本音」を聞き出すことは、調査というよりもまさに対話に近いのかもしれません。

花上:そうですね、調査の際に僕がこだわるのは「生の声」です。なぜなら、相手が語る言葉の中にこそ、一見外からは見えない秘められた真実が込められていると考えているからです。このプロジェクトも、皆さんのご協力のおかげで、認知症の原因とは直接結びつきそうもない周囲の人間関係や価値観が、大きな障壁になっていると分かりました。当時、使われていた「痴呆」とは、本来「愚か」という意味です。病気であると思わず、「年をとれば誰でもボケるもの」という間違った社会の認識が、患者の軽視や、受診への抵抗感につながっていたのです。

ターゲット調査から「ステークホルダー調査」へ

岩澤:調査から得た膨大なデータをどのようにPRに反映させたのでしょうか。

花上:まず、調査結果を基に、早期受診を妨げる障壁を「認知症に対する知識や情報の不足」、「社会や家庭の変化」「病気への抵抗感」「医師や介護関係者の問題」などの七つに分類し、それぞれを解決するアプローチを考えていきました。

 例えば、知識や情報不足を改善するために、調査結果を学術論文として一般公開しました。調査を単なる商品のセールスプロモーションではなく、患者や医師の理解促進に活用したいという製薬会社側の思いも大きかったからです。

岩澤:企業が商品を売りたいという論理ではなく、社会や生活者の理解促進に目的を置くというのは、まさにPRの本質につながりますね。生活者の課題を解決するということが、PRには欠かせない視点です。

花上:「認知症は病気で、治療が必要」とテレビCMや新聞広告を出したこともありました。でも、患者や家族は病気であることをそもそも認めたくないので、あまり効果がなかったんですね。病気への抵抗感をなくすためには、様々なステークホルダーを巻き込んだ長期的な取り組みが必要でした。

 患者本人や家族が早期に病状に気付けるように、「物忘れチェックリスト」の普及を行いましたし、医師によっても認知症への理解度が異なっていたため、かかりつけ医の診断技術の向上を目的としたプログラムも作成しました。調査結果を政府の研究チームとも共有して、2005年春、厚労省が正式に病名を「認知症」へと変更しました。

岩澤:調査と同様、PR施策においてもステークホルダーの幅の広さが特徴的です。

花上:そうですね、例えば患者だけをターゲットに調査や施策を設計していたら、このようなプロジェクトの成功はなかったでしょう。社会調査を一、二度やると、ついつい生活者の声を把握した気持ちになってしまいますが、社会の問題は僕たちの想像以上に複雑で、さまざまなステークホルダーが絡み合っています。だから、特定のターゲットにとどまらず、いろんなステークホルダーがどんな問題意識を抱えているのか、「生の声」に耳を傾けることがPRの基礎になると考えています。

岩澤:つい特定のターゲットにばかり目がいきがちですが、ターゲットを含む幅広い生活者の本音を知るということが、結果的に効果の高いPR施策につながるんですね。


後編では、PRを社会に定着させるために必要な視点について、引き続き深掘りしたいと思います。

▼後編はこちら

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